中央ユーラシア―遊牧民―騎馬遊牧民―トルコ人
トルコ人とは
トルコ人の定義・意味など
トルコ人とは、トルコ系諸語を母語とする民族(遊牧民)をいう。
参考:『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、670頁。
トルコ人の別名・別称・通称など
テュルク人
トルコはテュルクとも表記する。
なお、このページでは、いわゆる「トルコ系」「テュルク系」「トルコ系諸民族」「テュルク系諸民族」も「トルコ人」として表記していることがある。
トルコ人の勢力範囲
トルコ人はユーラシア大陸中央部の乾燥地域を中心に、東シベリアからトルコ共和国にまで広がる。
『中央ユーラシアを知る事典』 平凡社、2005年、365頁。
トルコ人と関係する概念
類似概念・類義語
モンゴル人
トルコ語は、7世紀のモンゴル高原の突厥第二帝国(682-745)の公用語になって以来、1000年以上もの間、非常に多くの種族が公用語として採用してきたが、それらの種族の起源は雑多で、系譜の上ですべて同じ血を引いていたわけではない。
したがって、民族の観念が発生する前の時代に「トルコ人」といえば、トルコ語を話す人というだけのことで、ことに13世紀のモンゴル帝国から後の時代のイスラム世界では、「トルコ人」と「モンゴル人」は同義語であった。
それが区別されるようになるのは、19世紀の西ヨーロッパで発達した比較言語学で、インド・ヨーロッパ語族に属する言語と区別して、ある言語をトルコ系、ある言語をモンゴル系と分類してからのことである。
岡田 英弘 『世界史の誕生』 ちくま文庫、1999年、240項。
トルコ人の歴史
中央ユーラシアの草原地帯のうち、南ロシア草原で古く、イラン系のスキタイが遊牧国家を建てた。
スキタイが発展させたいわば騎馬文化が東に伝わり、その結果、モンゴル高原に匈奴(トルコ系またはモンゴル系)の遊牧国家が成立したと思われる。
そのうち、モンゴル高原ではトルコ系の突厥が遊牧国家を建てたが、同じくトルコ系のウイグルが突厥に取って代わる。
ウイグル帝国が瓦解すると、トルコ人はモンゴル高原から中央アジアを経てイスラーム化しながら西アジアへ移動して(つまり、いわば中央ユーラシアの南半まわりで西方へ移動して)、セルジューク朝、さらにオスマン帝国を建て、トルコ革命の後、今日のトルコ共和国に至っている。
参考:護雅夫・岡田英弘編 『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』 山川出版社、1990年、まえがき。
丁零
トルコ人は中国史料には紀元前3世紀に丁零(漢・魏時代の史書に見える北方トルコ系遊牧民の1つ※)として初めて登場する。
※ 岩波書店 『広辞苑 第六版』
『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、670頁。
トルコ人が明確なかたちで歴史書に登場するのは、司馬遷の「史記」においてである。
「史記」の匈奴伝のなかで、モンゴル高原北部からバイカル湖周辺の地域で活躍する丁零という民族の事跡が記載されている。
少なくとも紀元前3世紀末には、トルコ人の姿を確認できるわけである。
『中央ユーラシアを知る事典』 平凡社、2005年、368頁。
トルコ帝国の出現
突厥
5~6世紀にはモンゴル系遊牧民の柔然がモンゴル高原を支配していた。
『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、435頁。
しかし、552年、アルタイ山脈西南麓で柔然に服属して鉄製品を供給していた※トルコ系遊牧民の突厥が国家を作り、たちまちかつての匈奴をしのぐ大遊牧国家に成長した(第一帝国(552~630))。
※『中央ユーラシアを知る事典』 平凡社、2005年、383頁。
岡田 英弘 『世界史の誕生』 ちくま文庫、1999年、113項。
なお、突厥の中核部を担ったのはキョク・テュルク(青いトルコ人)である。
『中央ユーラシアを知る事典』 平凡社、2005年、368頁。
鉄勒・オグズ
鉄勒は、6世紀に出現した、突厥を除くトルコ人の総称をいう。なお、鉄勒の祖先は丁零と考えられている※。
※丁零、鉄勒はテュルクの音写である。
『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、624頁。『中央ユーラシアを知る事典』 平凡社、2005年、368頁。
540年代に鉄勒の一部は柔然の支配下にあったが、柔然を攻めようとしたときに突厥が柔然に恩を売るべく鉄勒を討ったため、以後鉄勒は突厥の領域拡大とともにその支配下に入り、突厥が弱体化すると半独立の状態になった。
『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、624頁。『中央ユーラシアを知る事典』 平凡社、2005年、364頁。
7世紀前半にはトクズ・オグズ部族連合(9(トクズ)のオグズの意と考えられる)を形成して勢力を持ち、突厥と対立した。
なお、オグズはトルコ系遊牧民の1部族で鉄勒に属していたが、のちに鉄勒とほぼ同義になった。
『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、624・654・156頁。
ウイグル帝国
トルコ系遊牧民のウイグルははじめ突厥に支配されていたが、744年に突厥を滅ぼして建国し、8~9世紀にモンゴル高原を支配した(744~840)。
『世界史用語集』 山川出版社、2014年、54頁。
ウイグル帝国は100年近く繁栄したが、840年、西北から侵入してきたキリギス人に倒され、ウイグル人は四散した。
岡田 英弘 『世界史の誕生』 ちくま文庫、1999年、179項。
トルキスタン化
四散したウイグル人は、内モンゴル・甘粛・天山山脈に逃げ込んだ。
天山山脈に逃げたウイグル人はその北麓に新しい国を建てて、タリム盆地のオアシス都市を支配した。
岡田 英弘 『世界史の誕生』 ちくま文庫、1999年、179項。
パミール高原の東西に広がるステップ(中央アジア)とオアシス地域(新疆。タリム盆地。→オアシス都市国家)はインド・ヨーロッパ語系のイラン人が住んでいたが、ウイグル人が持ち込んだトルコ語が話されるようになって、この地域のトルキスタン(トルコ人の土地、国)化が始まった。
『理解しやすい世界史B』 文英堂、1994年、123頁。『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、669頁。岡田 英弘 『世界史の誕生』 ちくま文庫、1999年、179項。
なお、後述するように19世紀後半、ロシア帝国がトルキスタンの西部(主にアムダリア川・シルダリア川流域の中央アジア)を征服して、トルキスタンは初めて明確な境界線を持つに至った。
このロシア領=西トルキスタンに対して、パミール高原を境にして東のタリム盆地などの清朝(中国)領内でトルコ人が住む地域=新疆は東トルキスタンと呼ばれるようになった。
『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、669頁。『チャート式シリーズ 新世界史』 数研出版、2014年、110頁。『理解しやすい世界史B』 文英堂、1994年、123頁。
イスラーム化
他方、パミール高原以西の西トルキスタン(中央アジア)においては、7世紀にアラビア半島で誕生したイスラームの勢力が拡大しており、9世紀以降、西進してきたトルコ人のイスラーム化(→トルクマーン)が進行した。
こうして9世紀に始まるトルコ人の西方移動は、数世紀をかけて、西へ向かうトルコ化(住民の言語のトルコ語化)・トルキスタン化と、イスラーム勢力との接触による東へ向かうイスラーム化(住民のイスラーム化)の波を引き起こし、世界史に大きな影響を与えた。
『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、62頁。
カラハン朝
10世紀に入ると、トルコ人のカラハン朝(940頃~1132頃)が台頭した。
『中央ユーラシアを知る事典』 平凡社、2005年、147頁。『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、670頁。
カラハン朝はトルコ人で最初にイスラーム化し、東トルキスタン・西トルキスタンをあわせてこの地方にイスラーム文化を導入した。
『中央ユーラシアを知る事典』 平凡社、2005年、147頁。『詳説 世界史』 山川出版、2019年、107頁。
マムルーク
ウイグル帝国崩壊の時代に中央アジアのイスラーム化したトルコ人は、戦争捕虜や傭兵などとして西アジアに流入した。
遊牧騎馬民族で武勇に優れていたトルコ人はアラブ人(アッバース朝(750~1258))・イラン人(サーマーン朝(875~999))支配の下で奴隷軍人(→マムルーク)として仕え、結果的に大きな権力を持つに至る。
『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、85頁。『理解しやすい世界史B』 文英堂、1994年、123頁。
ガズナ朝
マムルークとしてイラン系王朝(サーマン朝)に仕えていた軍人がアフガニスタンで自立してガズナ朝(962~1186)の基礎を作り、トルコ系イスラム王朝が登場した。
『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、670頁。『世界史用語集』 山川出版社、2014年、79頁。
セルジューク朝
セルジューク朝(1038~1194)はトルコ語を話す(トルコ人の)イスラム教徒(つまり、トルクマーン。イスラーム化したオグズ)の一派であるセルジューク人の国である。
岡田 英弘 『世界史の誕生』 ちくま文庫、1999年、25-26項。『中央ユーラシアを知る事典』 平凡社、2005年、99頁。
突厥の滅亡(744)とともにオグズ(鉄勒)が西方への移動を始める。
オグズは10世紀末にシルダリア川から南下して1038年にセルジューク朝を建て、西アジア一帯(イランからイラク、シリア、小アジア)を支配下に入れた。
『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、670頁。『中央ユーラシアを知る事典』 平凡社、2005年、368頁。
オスマン帝国
1299年、アナトリア(小アジア。当時は辺境だった)に移動してきたオグズ(トルクマーン)の一派がオスマン帝国(1299~1922)の基礎を築いた。
『中央ユーラシアを知る事典』 平凡社、2005年、368頁。平凡社 『世界大百科事典』。
オスマン帝国は1453年にビザンツ帝国を滅ぼす。
16世紀には、オスマン帝国の支配域は小アジアからアラビア半島、北アフリカ、東ヨーロッパにまで拡大する。
こうしてオスマン帝国は1992年の滅亡まで中東地域に強大な勢力を築いた。
『中央ユーラシアを知る事典』 平凡社、2005年、368頁。
オスマン帝国は前近代のイスラム史上最後のイスラム的世界帝国である。
『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、160頁。
その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。
オスマン帝国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/オスマン帝国
ブハラ・ヒヴァ・コーカンドの3ハン国
中央アジア(西トルキスタン)では、16世紀初頭にトルコ系のウズベク族(ウズベク人)が南下して、ブハラ・ヒヴァ・コーカンドの3ハン国と総称される諸国家を建てた。
『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、670頁。『世界史用語集』 山川出版社、2014年、139頁。
しかし、クリミア戦争に敗れたロシア帝国が鉾先を中央アジアに向け、ブハラ(1868)・ヒヴァ(1873)の2ハン国を保護国とし、1876年にはコーカンド・ハン国を併合して、中央アジア全土(西トルキスタン。主にアムダリア川・シルダリア川流域)をトルキスタン省とし、カスピ海以東の地に勢力を拡張した。
『チャート式シリーズ 新世界史』 数研出版、2014年、369・110頁。
トルコ共和国
オスマン帝国は第一次世界大戦で同盟国側にたって参戦して敗れ、セーヴル条約によって西アジアとほとんどすべてのヨーロッパ領土(コンスタンティノープル付近を除く)を失ったうえに、列強による国土分割の危機に直面した(→サイクス・ピコ協定)。
『詳説 世界史』 山川出版、2019年、353頁。『チャート式シリーズ 新世界史』 数研出版、2014年、419頁。
そのため、トルコ革命が起こり、アンカラを首都としてアナトリアにトルコ共和国が建国された。
『詳説 世界史』 山川出版、2019年、353頁。『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、670頁。
ソ連解体
ソ連解体後、中央アジアには次の5つの国家が現れた。タジキスタン以外はトルコ人が多数を占める。
また、新疆ウイグル自治区の住民の大半もトルコ人である。
『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、670頁。
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