中央ユーラシア―遊牧民―騎馬遊牧民―イラン人―スキタイ人
スキタイとは
スキタイの定義・意味など
スキタイとは、前7~前3世紀に黒海北岸・北コーカサス(カフカス)にいたイラン系騎馬遊牧民をいい、古代ギリシア人による呼称である。
『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、485頁。『世界史用語集』 山川出版社、2014年、53頁。
スキタイの居住地
スキタイは黒海北岸・北コーカサス(カフカス)にいたとされる。
ヘロドトスの『歴史(ヒストリアイ)』によると、スキタイの住地は、西は現ドナウ川から東は現ドン川まで、つまり、現在のルーマニア、モルドバ、ウクライナ、北コーカサス(カフカス)まで広がっていた。
岡田 英弘 『世界史の誕生』 ちくま文庫、1999年、126項。
スキタイの位置づけ・体系(上位概念等)
北イラン人
イラン人は騎馬遊牧民として前1千年紀にイラン高原からタリム盆地にいたる地域に広がり、遊牧とならんで各地において定着農耕への移行を開始した。それとともに3つの方言群が成立した。
参考:平凡社 『世界大百科事典』。なお、『世界大百科事典』では「イラン人」等ではなく「イラン族」等という表記を用いている
スキタイの意義・評価・解釈
最初の遊牧国家
スキタイは文献資料のうえで知られる最初の遊牧国家を建設し、遊牧国家のモデルを作った。
『詳説 世界史』 山川出版、2019年、79頁。『世界史用語集』 山川出版社、2014年、53頁。
スキタイが発展させたいわば騎馬文化が東に伝わり、その結果、モンゴル高原に匈奴(トルコ系またはモンゴル系)の遊牧国家が成立したのではないかと思われる。
護雅夫・岡田英弘編 『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』 山川出版社、1990年、まえがき。
スキタイの歴史
スキタイの起源
北アジアの遊牧民
『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、485頁。『世界史用語集』 山川出版社、2014年、53頁。
マッサゲタイ人
ヘロドトスの『歴史』によると、スキタイ人ははじめアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイ人(古代ギリシアの諸史料に登場するが民族不詳)に攻め悩まされた結果、現ヴォルガ川を渡り、黒海の北岸に移った。
この地方の先住民族であったキンメリア人(イラン系)は大挙して押し寄せたスキタイ人から逃れて南下し、現在のトルコ共和国のアナトリア半島に入った。
スキタイ人はこれを追ってコーカサスを通って(カフカス山脈を越えて)南下し、現イラン高原(西アジア)に侵入して、28年間この地方を支配した後、黒海の北に引き揚げた。これは前8世紀末のことであった。
岡田 英弘 『世界史の誕生』 ちくま文庫、1999年、126-127項。平凡社 『世界大百科事典』
なお、西アジアに侵入したスキタイ人はキンメリア人とともにアッシリア帝国衰退の一因をつくった。
平凡社 『世界大百科事典』
アケメネス朝ペルシア
アケメネス朝ペルシアの時代になると、スキタイは、ダレイオス1世の大軍遠征をこうむる。これにはかつての西アジア侵入の復讐とギリシア遠征にさきだつスキタイ牽制の意図があった。
出没自在のスキタイ人はペルシア軍を悩ませたが、ペルシア帝国の領域拡大で、その後のスキタイ勢力圏はいちじるしく狭められ、スキタイ人は黒海北岸に点在するギリシア人植民都市と交易を通じて共存共栄をはかった。
平凡社 『世界大百科事典』
サルマタイ(サルマート)人
スキタイは黒海沿岸のギリシア人植民都市と共存したが、前3世紀になってスキタイと近縁関係をもち、その東方に住んでいたサルマタイ(サルマート)人(イラン系)が大挙ドン川を渡ってスキタイ領に侵入し、スキタイ人はクリミア半島に追いこまれ、そこに小王国をつくって、わずかに余勢を保つのみとなった。
平凡社 『世界大百科事典』。『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、485頁。
ゴート人
3世紀半ば、スキタイは西北方から侵入したゲルマン系のゴート人に滅ぼされた。
岡田 英弘 『世界史の誕生』 ちくま文庫、1999年、137項。
現在のページが属するカテゴリ内のページ一覧[全 8 ページ]
- 中央ユーラシア(内陸アジア・広義の中央アジア)
- 中央ユーラシア―遊牧民
- 中央ユーラシア―遊牧民―騎馬遊牧民
- 中央ユーラシア―遊牧民―騎馬遊牧民―遊牧国家
- 中央ユーラシア―遊牧民―騎馬遊牧民―イラン人―スキタイ人
- 中央ユーラシア―遊牧民―騎馬遊牧民―トルコ人
- 中央ユーラシア―遊牧民―騎馬遊牧民―トルコ人―セルジューク人
- 中央ユーラシア―遊牧民―騎馬遊牧民―トルコ人―キプチャック人
現在のページが属するカテゴリのサイトにおける位置づけ