[歴史②]世界史

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西アジア―パレスチナ―パレスチナ問題


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パレスチナ問題とは

パレスチナ問題の定義・意味など

パレスチナ問題とは、パレスチナ地方を巡るアラブ人とユダヤ人の対立・紛争をいう。

『世界史用語集』 山川出版社、2014年、302頁。

パレスチナ問題の経緯・歴史

オスマン帝国のアラブ人が多く住む地域のうち、歴史的にシリアと呼ばれてきた地域は、第一次世界大戦後に4つに分けられた。
セーブル条約によりパレスチナとヨルダンがイギリスの支配に、シリアとレバノンがフランスの支配に入った。
このうちパレスチナを除く3カ国はやがて独立したが、パレスチナでは、第一次世界大戦中のイギリスの矛盾した外交(「三枚舌外交」)によりユダヤ人との間で対立を深め、現在まで続くパレスチナ問題が生じることになった。

参考:『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、264頁。

シオニズム

1882年、ロシアでの迫害を逃れたユダヤ人パレスチナに移住した。
1897年のシオニスト会議を機にシオニズム(ユダヤ人の祖国復帰運動)が起こり、世界各地のユダヤ人が財力を背景にパレスチナに移住した。

参考:『世界史用語集』 山川出版社、2014年、302頁。

フセイン・マクマホン協定

イギリスは、アラブ人には1915年のフセイン・マクマホン協定を通じて戦後の独立を約束し、イギリスに敵対するオスマン帝国への反乱を促した。
なお、イギリスは翌年の1916年にフランス・ロシアと、フセイン・マクマホン協定と矛盾する内容のオスマン帝国領土(西アジア)分割の秘密条約であるサイクス・ピコ協定を結ぶ。

バルフォア宣言

さらにイギリスは、自国のユダヤ人の協力と財政援助を得るためにバルフォア宣言を発して、パレスチナにおけるユダヤ国家建設の支援を約した。

『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、264頁。

第一次世界大戦後

第一次世界大戦後、国際連盟の委任統治領となったパレスチナではアラブ人が独立を求める一方、バルフォア宣言に基づいて、ユダヤ移民が次第に増加し、両者は対立を深めた。

『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、264頁。『世界史用語集』 山川出版社、2014年、302頁。

パレスチナ問題の背景

民族紛争

オスマン帝国時代には、ムスリム(イスラーム教徒)・キリスト教徒・ユダヤ教徒はパレスチナで共存していた。
しかし、オスマン帝国の解体により、20世紀に入ってナショナリズムが一般化し、「宗教」より「民族」が基準とされるようになったために、ムスリムとキリスト教徒はアラブ人、ユダヤ教徒はユダヤ人となり、パレスチナ問題民族的な紛争となった。

参考:『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、264頁。



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