西アジア―トルコ―トルコ革命―ローザンヌ条約
ローザンヌ条約とは
ローザンヌ条約の定義・意味など
ローザンヌ条約とは、1923年にムスタファ・ケマルが率いるトルコ新政権が過酷なセーヴル条約を破棄して連合国と新たに結んだ講和条約をいう。
参考:『世界史用語集』 山川出版社、2014年、300頁。小学館 『日本大百科全書』など
ローザンヌ条約の内容
トルコの独立回復
トルコは、ローザンヌ条約により、新たな国境の画定(トラキア・アナトリアなどの領土回復)、治外法権の廃止、関税自主権の回復、連合国軍隊のダーダネルス、ボスポラス両海峡とイスタンブールからの撤退などを勝ち取り、独立を守った。
参考:『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、263頁。『世界史用語集』 山川出版社、2014年、300-301頁。小学館 『日本大百科全書』
ただし、ダーダネルス、ボスポラス両海峡の国際管理は依然改められず、1936年のモントルー条約まで待たねばならなかった。
小学館 『日本大百科全書』
新たな国境の画定
トルコはトラキア、全アナトリア、キリキア、アルメニア、クルディスターンの分割を免れた。
小学館 『日本大百科全書』
ローザンヌ条約の背景
セーブル条約・トルコ革命
第一次世界大戦後、しばらくは国境画定や講和条件に反発する国際紛争が続発した。
『詳説 世界史』 山川出版、2019年、341頁。
同盟国側に参戦して敗戦国となったトルコでは、連合国との講和条約は1920年のセーヴル条約であった。
その内容は過酷で屈辱的なものであったが、オスマン帝国はこれを受け入れ、西アジアとほとんどすべてのヨーロッパ領土(コンスタンティノープル付近を除く)を失い、小アジアの一小国に転落した。
同条約に反対するムスタファ・ケマルはセーブル条約破棄のための武力闘争に立ち上がり、スルタン政府に対抗し、同年アンカラでトルコ大国民議会を開催してアンカラ政府を樹立した。
そして、領土の一部(イズミル)を占領していたギリシア(イギリスの支援を受けてギリシア軍が1919年にギリシア人保護を名目にイズミルに上陸)と戦ってこれを回復した(→ギリシア・トルコ戦争。1919~22年)。
1922年にはスルタン制の廃止を発表して(カリフ制は1924年に廃止)、600年にわたるオスマン帝国の支配に終止符を打った(トルコ革命)。
ここにいたって連合国側もようやくセーブル条約の破棄に同意し、これに代わるローザンヌ条約が結ばれた。
小学館 『日本大百科全書』。『詳説 世界史』 山川出版、2019年、341頁。『チャート式シリーズ 新世界史』 数研出版、2014年、419頁。『よくわかる世界史』 学研プラス、2013年、337頁。『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、262頁。『世界史用語集』 山川出版社、2014年、300頁。希土戦争 (1919年-1922年) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/希土戦争_(1919年-1922年)
ローザンヌ条約の意義・評価・解釈
民族国家
民族国家とは、1つの民族が1つの国家を作るという近代ヨーロッパで発達した考え方だが※、オスマン帝国の解体により、ナショナリズムが一般化し、「宗教」より「民族」が基準とされるようになった。
その結果、現代の中東では、人々はまず「民族」の違いによって識別されるようになった。
トルコ人・アラブ人・イラン人はそれぞれに国を持ち、いったんは列強の支配下に入った場合でも、後には独立を獲得した(ただし、アラブ人にはパレスチナ問題が残る)。
ところが、クルド人は自分たちの国を持つことが認められなかった。
※『新編 詳解地理B 改訂版』 二宮書店、2019年、174頁。
『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、263頁。
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