語族―アルタイ語族―トルコ人―キプチャック人
キプチャック人とは
キプチャック人の定義・意味など
キプチャック人とは、オビ川上流のアルタイ山脈から出て来て、10~11世紀頃に現在のカザフ草原で民族形成を遂げたトルコ系(トルコ語を話す)遊牧民をいう。
『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、236頁。岡田 英弘 『世界史の誕生』 ちくま文庫、1999年、197項。
キプチャック人の別名・別称・通称など
ポロヴェツ(ポーロヴェツ・ポロヴツィ)
キプチャックはイスラム史料等にみられる呼称で、ロシア語ではポロヴェツと呼ぶ。ポーロヴェツ、ポロヴツィなども表記される。
『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、236頁。岡田 英弘 『世界史の誕生』 ちくま文庫、1999年、197項。
なお、ポロヴェツは「薄黄色い人々」という意味である。
岡田 英弘 『世界史の誕生』 ちくま文庫、1999年、19項。
キプチャック人の歴史
11世紀の初めにカザフスタン草原を通って西方へ大移動を開始し、同世紀末にはドナウ川に達した。
キプチャック人が占拠した、現在のカザフ草原や南ロシア草原(カザフスタン・北コーカサス・ウクライナにまたがるこの広大な草原地帯)はキプチャック草原として知られるようになった。
しかし、キプチャック人の間には政治的統一はあまりなく、多くのカガン(ハン、ハーン。内陸アジアのトルコ・モンゴル系遊牧民を中心に用いられた君主の称号※)たちがそれぞれ自分の部族を率いて活躍した。
11世紀末から、キプチャック人は東ローマ、ハンガリー、ルーシ(ロシアの古名)に攻撃を繰り返し、ことにルーシとの戦争は激しかった。
1185年にルーシのノブゴロド公イーゴリ2世がキプチャック人に敗れて捕虜になった戦いの物語は、古いロシア語の英雄詩「イーゴリ遠征譚」に歌われて有名になった。
この物語をもとにして、ボロディンが歌劇「イーゴリ公」を作ったのであるが、この歌劇の中で最も有名な曲が「ポロヴェツ人の踊り」である。
しかし、この曲の題名は、よく間違えて「ダッタン人の踊り」と訳されるが、これは間違いで、正しくは「キプチャック人の踊り」としなければならない。
「ダッタン」は漢字では「韃靼」と書き、「タタル」の音訳である。モンゴル人はもとタタルの中から出て来た種族なので、ロシア人はモンゴル人のことを「タタル」と呼んだのだが、ポロヴェツは(トルコ系の)キプチャックであってモンゴルではない。
参考:岡田 英弘 『世界史の誕生』 ちくま文庫、1999年、197-198項。
※『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、756頁。
マムルーク朝
キプチャック人たちは、奴隷として大量に売られて、黒海北岸のジェノヴァ人の港町から地中海沿岸に輸出され、そのうちに本来の住地では絶滅してしまう。
しかし、エジプトに輸出された奴隷たちは軍人となって、やがてマムルーク朝を建てた。
岡田 英弘 『世界史の誕生』 ちくま文庫、1999年、19項。
キプチャック・ハン国
キプチャック草原に建てられたモンゴルの遊牧政権(ジョチ・ウルス)は後世の史家にキプチャック・ハン国と呼ばれたが、キプチャック人は民族名としては姿を消しており、ウズベクやカザフの下位集団にその名をとどめた。
『角川世界史辞典』 KADOKAWA、2001年、236頁。
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