[歴史②]世界史

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ギリシア正教圏の形成―ギリシア正教会


ギリシア正教会とは

ギリシア正教会の定義・意味など

ギリシア正教会(ギリシアせいきょうかい)とは、キリスト教の一宗派で、ビザンツ皇帝と結びついたコンスタンティノープル教会を中心に発展し、東ヨーロッパ世界(南欧・東欧やロシア)に広まったキリスト教会をいう。

参考:『世界史用語集』 山川出版社、2014年、89頁。

ギリシア正教会の別名・別称・通称など

東方正教会

ギリシア正教会は東方正教会とも呼ばれる。

参考:三省堂 『スーパー大辞林』、小学館 『日本国語大辞典』

ギリシア正教会と関係する概念

反対概念・対概念
ローマ・カトリック教会

西ヨーロッパ世界のローマ・カトリック教会がラテン語を用いたのに対して、東ヨーロッパ世界のギリシア正教会はギリシア語を用いた。

参考:『世界史用語集』 山川出版社、2014年、89頁。

ギリシア正教会から派生する概念
ロシア正教会

ギリシア正教会の歴史

五本山

帝政末期のローマ帝国にキリスト教が広がるにつれて、キリスト教の教会が司教を中心に各地に多数成立した。

そして、これらを五本山と呼ばれるキリスト教会が統括した。

なかでも最有力だったのがローマ教会とコンスタンティノープル教会であった。

参考:『理解しやすい世界史B』 文英堂、1994年、139~140頁。

ローマ教会の独立
グレゴリウス1世

476年に西ローマ帝国が滅亡すると、ローマ教会は政治的にはビザンツ皇帝に従属させられた。

『理解しやすい世界史B』 文英堂、1994年、140頁。

しかし、ローマ教会は次第にビザンツ皇帝が支配するコンスタンティノープル教会から分離する傾向を見せ始め、独自の活動を展開するようになった。

参考:『詳説 世界史』 山川出版、2019年、124~125頁。

使徒ペテロ殉教の地であるとされるローマの司教はペテロの後継者を自任して、コンスタンティノープル教会に対抗し、グレゴリウス1世の頃には教皇という称号を用いるようになった。

軍事力も経済力もない教皇の影響力は、初めは限られたものでしかなかったが、ゲルマン人への布教に努めてその勢力範囲を次第に拡大させていった。

参考:『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、97頁。

聖像禁止令・ピピンの寄進

726年ビザンツ皇帝レオン3世が聖像禁止令を出すと、ゲルマン人への布教に聖像を必要としたローマ教会はこれに反発した。

そこで、ローマ教皇はフランク王国に接近を図った(→ピピンの寄進(教皇領の始まり))。

参考:『詳説 世界史』 山川出版、2019年、125頁。

カールの戴冠

カール大帝の時代にフランク王国がビザンツ帝国に並ぶ超大国になると、ローマ教会はビザンツ皇帝に匹敵する政治的保護者をフランク王国に見出した。

そこで、フランク王国という政治勢力と結んで(→カールの戴冠)ビザンツ皇帝への従属から独立した。

参考:『詳説 世界史』 山川出版、2019年、125~126頁。

ギリシア正教圏の形成

ビザンツ皇帝は、スラブ人の諸国家を影響下に置くため、ギリシア正教会の宣教師を派遣し、布教にあたらせた。

『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、95頁。

その結果、9世紀後半にはセルビア人やブルガール人などがギリシア正教に改宗し、東ヨーロッパのスラブ人を中心にギリシア正教圏が形成されていった。

『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、97頁。

ローマ・カトリック教会とギリシア正教会に分裂

1054年にキリスト教世界は西ヨーロッパのローマ教皇を首長とするローマ・カトリック教会と東ヨーロッパのビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会とに完全に分裂した。

参考:『詳説 世界史』 山川出版、2019年、126頁。



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