クウェート―歴史
クウェートの歴史
古代よりこの地を本拠地とする政治勢力はなく、常にオリエント・西アジア地域に出現した大帝国の支配下にあった。
『世界各国便覧』 山川出版社、2009年、209頁。『世界各国便覧』 山川出版社、2009年、24頁。
オスマン帝国支配
オスマン帝国支配下においてイラク地域はバグダード、バスラ、モースルの3つの州として統治されていた。
イラク共和国&クウェート国 | よくわかりたい歴史 https://ameblo.jp/nkgwkznt/entry-11487986789.html(文言一部変更)
クウェートはバスラに属す地域であったと考えられ、16世紀中頃にはバスラ州の管轄下に置かれていた。
『世界各国便覧』 山川出版社、2009年、24頁。
イギリス保護国
クウェートが政治的に意味を持ち出すのは、18世紀初頭にアラビア半島内部から、ベドウィン(アラブの遊牧民族)のウトゥーブ族が同地に移住し始めるようになってからである。
18世紀半ばには、ウトゥーブのサバーハ家がクウェート一帯を支配するようになった。
1899年、サバーハ家はオスマン帝国の圧力に対抗するため、クウェートをイギリスの保護国にするよう申し出、受理された。
つまり、サバーハ家はオスマン帝国の支配拡大を恐れ、イギリスと保護条約を結び、その傘の下に入ったということである。
これにより現在のクウェート国家の原型ができた。
『世界各国便覧』 山川出版社、2009年、24頁。サバーハ家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/サバーハ家。小学館 『日本大百科全書』。
独立
第二次大戦後、クウェートに反植民地主義、民族主義の動きも台頭し、イギリスは1961年に以前の保護条約を廃棄し、外交権を含む独立主権をクウェートに与えた。
翌年の1962年には憲法が発布され主権国家となった。
小学館 『日本大百科全書』
イラクのクウェート侵攻
イラク側から見れば、そもそもクウェートはイギリスが都合で1961年に作り上げたもので、もともとイラクの一部であり、少しも問題にするに足らない。
それでイラクはイラン・イラク戦争(1980-88)でしょいこんだ外債800億ドルを解決するために、簡単に考えて併合した。
しかし、サダム・フセイン大統領のイラク軍がクウェートを侵したのは、アメリカをはじめとする西側から見れば、領土保全の原則の明らかな侵犯である。全力を挙げて叩かなければならない。それで起きたのが湾岸戦争である。
岡田 英弘 『歴史とはなにか』 文藝春秋、2001年、24項。
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