[歴史②]世界史

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オスマン帝国の衰退


オスマン帝国の衰退

オスマン帝国は16世紀に最盛期を迎え、領土はアジア・ヨーロッパ・アフリカへと拡大した。

『詳説 世界史』 山川出版、2019年、283頁。岩波書店 『広辞苑 第六版』

しかし、17世紀末から衰退に向かう。

岩波書店 『広辞苑 第六版』

19世紀に入ってからは諸民族の独立運動とそれに伴うヨーロッパ勢力の干渉に苦しめられる。

『詳説 世界史』 山川出版、2019年、283頁。

第2次ウィーン包囲

第2次ウィーン包囲の失敗(1683)は、オスマン帝国の軍事面における衰退の始まりとなり、領土の拡大から縮小に転じる契機となった。

『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、211頁。『詳説 世界史』 山川出版、2019年、283頁。

かつては西ヨーロッパを脅かしたオスマン帝国であったが、ヨーロッパの急激な社会的・技術的な発展により、力関係が逆転するようになっていたのである。

『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、211頁。

大トルコ戦争

カルロヴィッツ条約

大トルコ戦争後のカルロヴィッツ条約(1699)では、オスマン帝国はオーストリアにハンガリー・トランシルヴァニアなどを割譲し、初めて大規模な領土喪失を経験して東欧から後退した。

『詳説 世界史』 山川出版、2019年、283頁。『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、212頁。平凡社 『世界大百科事典』。大トルコ戦争 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/大トルコ戦争

カルロヴィッツ条約こそはオスマン帝国のヨーロッパに対する最初の敗北で、列強はこれに乗じてオスマン帝国の分裂を図るようになった。

『チャート式シリーズ 新世界史』 数研出版、2014年、159頁。

ロシアの南下政策

ピョートル1世は、良港の確保を目指して領土の拡大を図り、まず南方では、大トルコ戦争に乗じて1696年にオスマン帝国から黒海北部のアゾフ海の制海権を奪った(アゾフを占領した)。

『チャート式シリーズ 新世界史』 数研出版、2014年、269頁。『詳説 世界史』 山川出版、2019年、230頁。『世界史用語集』 山川出版社、2014年、176頁。露土戦争 (1686年-1700年) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/露土戦争 (1686年-1700年)。アゾフ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/アゾフ

そして、1700年、ロシアはオスマン帝国とコンスタンティノープル条約を締結して、オスマン帝国にアゾフの領有を認めさせた。
これはその後の南下政策の嚆矢となった。

露土戦争 (1686年-1700年) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/露土戦争 (1686年-1700年)

18世紀に入ると、南下政策を進める北方のロシアが脅威となり始めた。
オスマン帝国は1768年からの数次にわたる露土戦争で敗北し、1783年に15世紀以来の黒海北岸のクリム・ハン国への宗主権を失った。
長く宗主権下にあったクリミア半島のムスリム住民を異教徒の支配下に委ねたことは、イスラーム教の守護者を自任する帝国にとっては大きな衝撃であった。

『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、212頁。『詳説 世界史』 山川出版、2019年、283頁。

ナポレオンのエジプト占領

1798年には、ナポレオン指揮下のフランス軍がイスラーム世界の中心地の1つであったエジプトを占領した。
この事件は、当時のイスラーム世界に対する「西洋の衝撃」を代表するものとなった。

『新詳 世界史B』 帝国書院、2021年、212頁。

東方問題

ギリシア独立戦争

1821年には、バルカン半島でフランス革命の影響を受けたオスマン帝国内のギリシアが独立戦争(1821-1829)を起こし、オスマン帝国の支配を揺るがした。

『詳説 世界史』 山川出版、2019年、283・260頁。

エジプト・トルコ戦争

1831年には、オスマン帝国の支配下で自治が認められていたエジプトが、領土を要求してオスマン帝国と開戦した。

『詳説 世界史』 山川出版、2019年、260頁。

アジア・アフリカの諸民族の独立

帝国内のアジア・アフリカ領でも、民族的な自覚が起こり、オスマン帝国からの自立を求める新しい運動が始まった。
また、オスマン帝国をめぐって、ヨーロッパ列強の利害は複雑に絡み合っていた。
こうして諸民族の自立と列強の進出により、オスマン帝国の領土は縮小の一途をたどった。

『詳説 世界史』 山川出版、2019年、283-284頁。

具体例
クウェート

オスマン帝国支配下においてイラク地域はバグダード、バスラ、モースルの3つの州として統治されていた。

イラク共和国&クウェート国 | よくわかりたい歴史 https://ameblo.jp/nkgwkznt/entry-11487986789.html(文言一部変更)

クウェートはバスラに属す地域であったと考えられ、16世紀中頃にはバスラ州の管轄下に置かれていた。

『世界各国便覧』 山川出版社、2009年、24頁。

しかし、18世紀初頭にアラビア半島内部から、ベドウィン(アラブの遊牧民族)のウトゥーブ族が同地に移住し始めるようになり、18世紀半ばには、ウトゥーブのサバーハ家がクウェート一帯を支配するようになった。
1899年、サバーハ家はオスマン帝国の圧力に対抗するため、クウェートをイギリスの保護国にするよう申し出、受理された。
つまり、サバーハ家はオスマン帝国の支配拡大を恐れ、イギリスと保護条約を結び、その傘の下に入ったということである。
これにより現在のクウェート国家の原型ができた。

『世界各国便覧』 山川出版社、2009年、24頁。サバーハ家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/サバーハ家。小学館 『日本大百科全書』。



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